以下は介護についての記事ですが、最近、別の介護に関する記事をサイトに掲載させていただく機会を得ました。大変経験のないわたしのようなものの記事で恐縮ですがコレです。
その載ったサイトはココ
介護されている方はなにか参考になりそうでしたので、ぜひ。
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【タイトル】
【URL】https://job.kiracare.jp/
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はてなブログ:「青い海のようなもの」から引っ越してきました。
コメントをいただいた方、ブックマークの方、スターをいただいた方、申し訳ありませんです。
母を何年か介護した。
母は、じょじょに衰え、じょじょにやれることが減り、じょじょに寝たきりになっていった。
背骨の手術や膝の人工関節の手術をしていくたびに歩くことが難しくなり、それでも、痛みがひどくなるよりは、と手術をしたので、本来は、リハビリで日常生活に困らない程度に回復していく「はず」だった。
けれども、老年の衰えている身体に手術などの刺激やその後の安静状態はかなり負担で、そこからの復活は、行動できる可動範囲のラインが(あるとすれば)マイナスになっていったところからの出発が積み重なって、結局、じょじょにラインは下がっていった。
だんだんと、できなくなっていったり、やる気が失せていったり、いままで楽しく見ていたテレビ番組をあまり見なくなっていった。
そういうことが半年くらい顕著になり続けていたあいだ、わたしは、「叱咤激励」をしていた。
「術後の回復は、その後のリハビリにかかっている」という、一般論に執着した。
でも、その当時のわたしには、要介護の人々に関わるデイサービスの方々もいつも言っていることだし、看護師さんたちもお見舞いでも、
早く元気になってくださいね
と声をかけていくし、間違ってはいないと思っていた。
わたしは、
もっとね、食べないと、だいぶやせちゃったでしょう。お野菜も嫌いだって言ってないで、少しは食べようね
毎日のちょっとだけの運動でも、少しずつよくなっていくんだよ、ほら、立ったり座ったりしようね
お昼寝ばかりしていると、夜眠れなくなるでしょう、それで、眠れないって悩むのはだめだよ〜、いま起きていないと
お菓子ばかり食べていても、栄養にならないよ、ご飯のときにお腹がすかなくなるでしょう
半年くらい続けていたときに、
一般的な看護や介護のマニュアルには書かれない、決定的なことがあることに気づいた。
衝撃的に気がついた。
わたしの「叱咤激励」は、母のためになっているだろうか。
母は、がんばって回復したいのだろうか。
そうじゃなくて、できる範囲のことをして、ゆったりと過ごしていきたいのではないだろうか。
そのとき、わたしは
見守っていない
ことに気がついた。
母のためを思って、
と思っていたけれど、
わたしのためになっていた。
わたしは、母に良くなってまた元気になって欲しかった。
わたしは、母のためになっている、役に立てていると思いたかった。
母が介護してもらいたいようにしてあげるということと、
家族が介護したいようにしていくということとの違い。
こうなっていく(介護される側と介護する側の心のずれ)原因は、もうたくさんあると思うのだけけれど、その中の大きなもののひとつは、わたしの自己満足だった。
さらに、じゃあ、なるべくできるだけ(といっても危ないことやよくないことは別だけれども)口を出さず、本人の過ごしたいようにして、「放っておく」「やりたいようにさせておく」、そうして、それを「そばで見守っていく」(知らん顔するのではなくて)ということをすればよろしいでしょう、
と思われるかもしれないが、これが大変できにくいことなのだった。
できにくい、やれない、どうしても。
そのまま母のやりたいままに見守っていくというのは、大変な(わたしにとっては)精神的な力が必要なのだということに気づいた。
介護現場の様子をあまり知らないのだけれど、母のケアマネージャーさんにちょっと話を聞いたことがあった。
第三者的な視点で少し冷静にものごとを見ていくということが必要になる場合も多いのが介護です。そのためにもわたしたちのようなものがいるわけですね
なるほど。
家族というのは、そうでなくて、口を出し、手を出し、かまい、あれこれと「こちらのさせたいように」「こちらのなってほしい状態にさせたい」がために強制的になにかを「する」ほうが、「しない」ことよりも楽だ。
あえて母の生活に介入せず、見守るということは「無作為の作為」といった言葉に近いように思う。
「積極的に行為しないことをする」のは、パワーがいる。食べたくないものを無理に食べさせようとせず(もちろん、食べそうなものを用意したり、量を加減したり、調理を工夫したりはベストを尽くす)、本人の意志を尊重して、しかも、こちらとしては、不機嫌にならず(当たり前だ)慈しみを持って(こちらの意志に反していても)対応する、の繰り返しを忍耐強く続けていく。
そうすると、気がついたら、少し母の表情や、言葉や行為がおだやかになっていった。
やはり、わたしの「こうしたらいいのに」とか、「こうすればもっとよくなるはずだ」といった、押しつけがプレッシャーや負担になっていたのだと思った。
これは、非常にデリケート・繊細な事柄なので、
「そんなこと言ったって、なかなかそうはいかない」
的な、心の、まあ言ってみれば、よけいなこと、介護の実際には現れにくい、「行間」のようなものだから、このまま(読んでくれたということだけでもすごいことだと思うが)ハタと引っかからずにスルーしてしまう人も多いと思う。
わたしがこのことに気づいたきっかけは、まさに第三者的な視点からだった。
あるとき、母の診察で訪れた大きな地域の拠点病院の待合室で、わたしたち親子と同じような車いすの母と娘という二人がとなりに座った。
その娘さんは、ずっと母親に話しかけていた。
こういうことをしちゃいけないっていつも言ってるでしょ、どうしてしてしまうの?
とずっとずっとお仕置きのような雰囲気で、その母親はひと言も言わず下を向いていた。
そして、
お母さんのためを思って言ってるのよ
このひと言で、わたしは目が覚めたのだった。
みなさまの介護が、どうかその方のための介護になっていますように。